こんにちは。
小学生時代に遊んでて友人の歯を折ったら、「マウスピースをしていなかった」という理由で歯の折れた友人が奉仕活動を命じられてドン引きした大矢根です。
「多様性を尊重しよう」って、本当にやり切れると思って言ってる?
不寛容には不寛容を
これだけは先に言っておかないと語弊があるので述べておきます。
Twitterで政治の話になるとまーーーーーーよくファシズムの焼き直しみたいな言動をする人が「お前らも俺らを排斥するじゃん」と居直り、それに対して「不寛容には不寛容で返さなければ世界は不寛容に包まれる」みたいな反論をしています。
僕も反論している人を支持する立場だということだけ先にお伝えさせてください。
国際学部生「多様な仲間と共に学べた」
僕がフリーのライターを専業としていた時期には、よく学生を取材する仕事を請けていました。
大学のパンフレットとかに掲載するやつです。
そうすると、特に入試の英語配点が高くて偏差値の高い大学の学部生たちは口をそろえて言うんです。
「多様なバックグラウンドや経験を持つ仲間と一緒に学べて見聞を広められます」
そうか?
本当にそう思うのか?
親の金で大学に入り、親の金で英米に留学し、ツアー型のボランティアに精を出した経験を就職面接で語っている君たちは、社会のどの断面よりも均質な集団じゃないか?
国際系の学部でキャンパスライフを謳歌し、華やかな経験を引っさげて一流企業の面接に向かう学生の多くは、きっと会社でも上手く立ち回って同じような社会階層を再生産するのでしょう。
彼らの語る多様性は、パチンコ屋の店内にある多様性ーー上場企業役員も浮浪者も同じ釘の設定に翻弄される平等さーーからはかけ離れた場所にあるように見えました。
「多様性」の埒外にも世界は広がっていて、そこは正しくなかったり、愚かだったり、汚かったりします。
木造アパートの上階に住む住民が放り投げた灰皿の中身をかぶったことはありますか?
放課後、缶チューハイを飲んでいる親から100円玉を投げつけられる友人を見たことはありますか?
あなたの想像する「多様性」の中に、生涯を半径5kmの世界で終える人は含まれているでしょうか?
僕たちのコンテンツがきっと届かない場所
ところかわってニュージーランドのオークランド空港から100km/h制限の国道で2時間半、いつくかの峠を越えた先に小さな港町「ラグラン」があります。
町の見どころは静かなビーチ。
夏場の週末になると地元民や観光客が、高緯度地域特有の短い夏に味わえる長く明るい午後を楽しんでいます。
街には数件の雑貨屋さんとフィッシュアンドチップス店、それからガソリンスタンドといくつかの商店があります。
牧場風景の切れ目に小さい町が現れ、目抜き通りは「ビクトリア・ストリート」と名付けられており、その交差点に4件くらいの商店がある。
これがニュージーランド中どこに行っても見られる街並みです。
「日本の地方都市はロードサイドが画一的」とか笑わせんなってくらいの地方色のなさ。
目抜き通りの近くにはアングロサクソン系の白人とアジア人が住んでいる、芝を刈り揃えた前庭のある一戸建てが並び、中心部を外れるとラテン系、アフリカ系、アイランダー系の住民が多く住むアパートが並びます。
町を出ると再び牧場風景が続きます。
牧場の所有者はほぼアングロサクソン系の白人で、あり得ないスピードで走るオフロードバイクとボーダーコリーが羊を追い回しています。
僕がどれだけ「多様性」とやらに配慮してコンテンツを作っても、きっと彼らの誰にも届かないのでしょう。
諦め続けることを諦めない
僕は自分が発信する言葉を世界中に届けることなんて到底無理だと思っています。
だけど、この記事は読んだ人の何パーセントかに届いてくれると信じているから書いているんです。
そうすれば広くて、間違っていて、愚かで、汚い世界に僕の言葉が届いた半径を少しずつ広げられるから。
一つひとつの仕事で僕にできることは本当に小さくて、無力。
でも、その無力さを受け入れ続けることを諦めないことが、僕にできる唯一の、理由なき反抗です。



