「大樹さん、鍋で脱獄しましょうや!」
同じ大学で同級生になった私と佐藤大樹は、大学であったあれこれにブツクサと文句を言いながら、部屋にこもってよく鍋をしていた。
入学当初から大学に馴染めず、持て余した感情のやり場として、
徳用ウインナーをはじめ、あらゆるものを鍋に放り込んでいた。
野菜は気分で入る。肉は安さで決まる。
ウインナーだけは、なぜか常に主役だった。
味付けも毎回違う。
というより、同じにしようという意思がなかった。
その日その日の機嫌で、鍋の中身と味が決まる。
そして、その鍋をつつきながら、『プリズン・ブレイク』を見る。

なぜか毎回、脱獄は始まっていた。
ジョン・アブルッチが出てくると、
一旦、箸が止まる。
「いかちぃーーーーーー」と毎回言う。
シーノートが毎度の如く、雑な男気を見せてくると、少しだけ空気が良くなる。
フェルナンド・スクレが出てくると、なぜか安心して鍋をつつくペースが上がる。
「こいつおらんかったら無理やったっすねー」
と、これも毎回言う。
主人公マイケルについては、あまりにも綺麗すぎる顔立ちに緩んだお腹がついているのを、意外だ意外だ!とはしゃいだ。どういうわけか、完璧さよりも、その微妙な隙に安心していた。

自己投影というには、だいぶ雑だったと思う。
でも、あの時間の中では、それで十分だった。
そしてそれらをすべて、コーラで流し込んでやる。
ゴォゲェフッ!
うますぎる。鍋の熱と、炭酸の暴力性が、ちょうどいいバランスで体に入ってくる。
何を食べているのかは、あまり重要ではなかった気がする。
間違いなく、大学生活のハイライトの一つだと思う。
冬の間、二日に一回はやっていたので、少しハイライトを引きすぎな気もするが。
でも今になって思う。あの手の快楽は、ただの「瞬間」だったのだろう。強くて、分かりやすくて、その分だけ、何かを雑に削っていた。
今の私は、少し違う。
食事のときは、熱いお茶を飲む。食後にも、もう一杯飲む。
夕方にも、寝る前にも、隙があれば白湯を口にする。
鍋の途中にコーラで胃を洗浄するような生活からは、いつの間にか離れた。
胃を洗うことから足を洗った、と言えなくもない。
熱いお茶を飲む、という行為には、実は大きな意味がある。
まず、少しだけ手間がかかる。
急須とマグカップを用意して、お湯を沸かして、注いで、待つ。
ペットボトルなら一瞬で済むことを、わざわざ遠回りしている。
そして、熱いお茶は、ゆっくりとしか飲めない。急ぐことができないのだ。
効率で言えば、かなり悪い水分補給だと思う。
でもその非効率さが、そのまま「自分を雑に扱わない」という姿勢になる。
その点、あの鍋のコーラはどうだったか。
袋から鍋に移された食材を、今度は自分の胃に詰めて、さらにコーラで押し流す。浮き上がってくる炭酸と一緒に、余計なエアリー感を外に出す。容量が減ったペットボトルは、炭酸が抜けないようにと、大樹の持ち前の握力で強めに握りつぶす。もちろん、コカ・レッドボーイは、原型を留めてなどいない。
あの時間は、自分で自分を削って、かたちを変えて消費していく感じにどこか似ていた気がする。一時的な快楽や安らぎと引き換えに、大事な部分を少しずつ手放していたような、そんな時間だったのだろう。もちろん、あれも楽しかったのだけれど。
今は、自分で自分のために時間を使うことを、以前より大事に考えている。たとえ何もしていない一日でも、失敗した日でも、それをそのまま受け入れてちゃんと労うこと。
揺れないものは、そういうところからしか作られない。



