こんにちは。
無暖房チャレンジの結果寝正月を迎えた大矢根です。
「賢く生きろ」「正しくあれ」。
そんな世界の要請に僕はトンチキで「ノー」を叩きつける。
正しさの証明は永遠に不可能
自分の生活圏で正しいとされていることは、他のどこか、もしくは他の時間軸において正しくないとされていたことはいくらでもあります。
たとえば夢のテクノロジーだと称えられたフロンガスは後にオゾン層を破壊することがわかりました。
天動説は否定され、地動説の時代が訪れました。
世界の端は滝になってはいませんでした。
そして現代の科学を支えているのは様々な理論や実証。
しかし現代科学の礎たちとて、永遠の無謬性を保証された存在ではありません。
もっといえば、反証可能性こそが科学を科学たらしめているのです。
それこそ光速を超える粒子「タキオン」が発見されれば相対性理論は破綻することになります。
そのくらい僕たちの生きる世界の「正しさ」はもろい存在なのだと思います。
判断の結果は常に「愚行」へと揺らぐ
僕たちは神ではないので、個人の判断は無謬性からかけ離れた存在です。
「判断」という行為を行った時点で個人の正しさは永遠に保留され、誤りだけが時間に審判されるという「悪魔の証明」にも似た状態になります。
だから判断することは怖い。
判断はいつでも愚行になり得る。
世界は後出しじゃんけんで真実を突き付けてくる。
そのときに世間は自分を守ってくれない。
だから既知の殻に閉じこもるのは簡単で、間違えた誰かに後ろ指を指すのは気持ち良いんです。
それでも人は1円も儲からない未踏の雪山に挑み、1000気圧の深海底に船を送り込んできました。
人は判断の甘美さを忘れられない
何も永遠の正しさを保証されているものがないなら、自分が死ぬまで周りが「正しい」としていることにしがみついて逃げ切れれば勝ち?
それじゃあ面白くないですよね。
わからないことをやってみたり、知らないことを知るから人生は面白いんです。
誰かのたどった道だけを訳知り顔で歩く人生を、僕は遠慮しておきます。
悩みにぶつかり、自分で判断する瞬間こそ自分が自分として生きている時間です。
別に小さいことだっていいんです。
「食べログ」評価なんてない場末の屋台で衛生の終わってるラーメンをすすったっていいじゃないですか。
だけど、ポリバケツからすくったスープが目の前に出されたときのゾクゾク感、雨水したたるガード下ですすったふやけた麺、これが自分で選んだ500円の使い方。
その時間に覚えた高揚と後悔、腹痛とめまいが、僕に明らかな愚行の甘美さを刻み込んでいきました。
重ねた愚行の上に立て
やばい屋台のラーメンで腹を壊すような愚行の先に今の僕がいます。
逆に、愚行を積み重ねていなければ今の僕はいません。
賢いことならだれかに任せておけばいいんです。
正しいかわからないことに飛び込む選択だけが僕のオリジナリティで、僕が僕である証明。
だからこれからも僕は「は?」と言われるようなことを言って、「だから言ったじゃん」と言われるようなバカをやり続けていこうと思っています。



