──「食べる」という行為を、人生と仕事の中心に置く理由
カレーが好きだ。
だが一言でカレーが好きと言っても、少しややこしい。
エスニックな本格スパイス系でもなく、
老舗洋食屋の「咖喱」と書かれた伝統の味でもない。
好きなのは──いわゆる“おしゃれスパイスカレー”。
突然どこからか現れ、SNSで話題になったあのタイプだ。
あいがけのルーで、パリパリが乗っていたら、なお良いだろう。
とはいえ、もし明日が人生最後の日だとしても、
その“好きなカレー”を選ぶか?と問われれば、
「まあ、最後でも構わないけど、気持ちよくはない」と答える。
「好きなもの=ふさわしいもの」ではない。
この違いは、意外と大事なんじゃないか。

「最後の晩餐」を意識して生きるということ
私の目標のひとつは、
人生でとるすべての食事を“最後の晩餐”としてふさわしいものにすること。
それは、食へのこだわりではなく、
死生観をもって日々を生きることにほかならない。
18歳のとき、バイト仲間に猟奇的な殺人計画を聞かされ震えあがった。
19歳のとき、ケニアでタクシー強盗に遭い、ナイフを突きつけられた。
23歳のときには、エチオピアの村で42度の熱に倒れ入院し、
同じ年、路上で首を締め上げられた。
たった30年ほどの人生の中でも、何度も死の間際に触れてきた。
そしてようやく体でわかってきた。
「人間はいつ死ぬかわからない」──これは全然比喩じゃなくて、
実際に、明日がないかもしれないのだ。
だからこそ、今日の食事を“最後の晩餐”と思って食べる。
その体感が、自分にとって「誠実に生きる」ということだ。
そして──あの日のパーティーのこと
先日、会社のみんなで記念パーティーをした。
カートレースを全力で走り、写真を撮りまくった。
夜にはファビオシェフがブラジル式で肉を豪快に焼き、
たすくシェフは謎のネギホイル焼きを仕込み、
亮太おすすめの焼肉のタレを焼きそばにぶっかけてかき混ぜ、
“その日の最高肉”であるシャトーブリアンが
焼きそばの上にドンと乗せられ──
肉の風味が丸ごと消し飛んだ。
大樹の一挙手一投足がファビオの逆鱗に触れ、
そのたびにみんなが腹を抱えて笑った。
全部ビビるくらい美味かったし、みんなとても楽しそうだった。
まぎれもなく“幸福”な時間だった。
あの瞬間、思った。
「これが最後でも、別に悔いはないな」
そう思える食卓は、人生の宝物だ。

クリエイティブラボの食卓に込める思想
2026年、ギルギルタウンは「クリエイティブラボ」を始動する。
ここでは、毎日全員で食事をとる。
クライアントが来ていれば、もちろん一緒に食べる。
“ランチミーティング”とかじゃなくて、もっと根源的な意味を持つ時間だ。
生物学的に見れば、食事は「栄養補給」であり未来への投資だ。
だが、社会学的に見れば、食事は「関係構築」であり幸福の源だ。
人間はパンのみに生きるにあらず。
食卓は、心をつなぐための儀式なのだ。
食べながら語り、笑い、沈黙を共有する。
その中で、創造は芽を出し、信頼が育ち、チームが強くなる。
「あれが最後の晩餐でよかった」と思える環境
もし今日が最後の日でもいい。
帰り道で事故にあっても、寿命が尽きても。
「あの時の食卓が、最後の晩餐でよかった」と心から思えるように。
それが、クリエイティブラボの目指す“食のあり方”だ。
どんなに忙しくても、どんなプロジェクトの最中でも、
食事の時間だけは、「生きる喜びを確かめる時間」にしよう。
一緒に働く仲間と、同じ釜の飯を食う。
その行為は、“愛で駆動する組織”の中心にあるべきだ。
「人生の最期にふさわしい時間を積み重ねる場所」
それがラボの食卓のあり方だ。
終わりに
今日の飯は、最後の晩餐にふさわしいか。
この問いは、食事の話ではない。
自分がどう生きたいか、誰と時間を過ごしたいか、
どんな人生を送りたいか──
その核心に触れる問いだ。
あの日のパーティーは、間違いなくふさわしかった。
あんな時間を、これからも積み重ねたい。
ギルギルタウンの食卓が、
何度死を迎えても悔いのない、“最後の晩餐”であるために。




